高校の履修漏れ事件、自殺者まで・・・

朝から少々暗い話題ですが。

背景

最近、高校の履修漏れ事件が話題になっています。これは大雑把に言うと、「受験に必要ではないけれど必修である」科目について、「他の授業で振り替えを行い、単位的には取ったことにする」ようなもの。たとえて言うなら、「小学校の道徳の時間が、実際には小テストその他の時間に使われている」ようなものです。…この例え、今はどうだか分かりませんけど、少なくとも自分が小学生の時には(少なくとも何割かは)そうでした。

そして、この「履修漏れ」が明るみに出たため、生徒は冬休み(しかも受験の直前)に補修を行って、足りなかった単位(世界史など)を取る…という事を必要とされてしまっています。そんな中、ついに校長先生が自殺してしまうという事件まで発展してしまいました。

記事はYOMIURI ONLINEより。
「必修逃れ」謝罪2日後に不明、茨城県立高校長が自殺

自分も出身が茨城だし、思わず驚いて内容を確認してしまいました。この校長が勤務していた学校でも、やはり同様の事態があったようです。

以下、少し引用。

 高久校長は今年4月、同校に着任した。この問題では教職員に対し「管理職である我々が責任を持って対応する」と説明。今月27日には全校生徒に対する説明会を開き、「悪かった。君たちが卒業できないようにはしない」と謝罪していた。

 必修逃れをした理由については、読売新聞の取材に対し、「受験を優先させ、生徒によかれと思い、勇み足をしてしまった。科目は違っても同じ理科、歴史を教えているのだからと、安易に考えてしまった」と答えていた。

この事件に対し、自分の切り口を二つほど。

見方1:制度的な問題

まず第一には、受験制度に視点が行くのは当然だと思います。

履修漏れとは言え、学校側も悪いと思っていながら、「生徒が受験に成功できるように」との思いはあったはずです。必修の時間を割いてまで、受験科目の勉強に時間を当てなければならないような状態。あるいは、「受験科目さえできれば他はできなくてもいい(仕方がない)」という発想。週休二日制や、カリキュラムの立て方。もう一歩踏み込むと、「履修をしていたとして、それが大学で生かされているか(試験の点数だけでなく、きちんとした知識・知恵となっているか)」という問題なども出てきます。

形だけの単位だったら、はっきり言って意味ないと思います。義務教育ならまだしも、高校は「行く・行かないは自由」な場所名ワケですから。…もっとも、「形だけの単位」っていうのは高校に限ったことではないでしょうけど。(自分の周りでもありますし。)

その辺から切り崩していくのが、一つの見方だと思います。

見方2:自殺した校長

二つ目。これは厳しいことを言うようですが、「果たして自殺する理由はあったのか」という点。もっと言うなら、「生徒に対して約束した、『卒業できないようにはしない』という事は、本当に達成されているのか」という疑問。校長自身は、自分が死ぬことで責任を取る、と思ったのかもしれません。でも、それで何かが解決するのでしょうか。

仮にこれだけで(自殺の件だけで)この学校の生徒が卒業できるようになったら、他の学校から反発を買うのは当然です。かといって、それですべての学校の生徒が単位追加なしに卒業できたら、今度は教育カリキュラムそのものが意味をなさなくなってきます。こう考えてしまうと、「自殺して責任を取ることで、生徒を卒業させよう」という考えには無理があると思います。

では、逆に、「やるべき事はやり尽くしたけどだめだった」という、八方ふさがりな状態になって自殺してしまった、としたら。これもやはり、生徒に対しての約束は守れていないことになります。むしろ、方針を決めるべき校長がいなくなってしまい、学校側がよけいに混乱するばかりでしょう。

どうもこうやって疑問を考えていると、ミステリーなんかにあるような「実は、この件で校長に恨みを持った人による殺人」なんていう状況も想像できてしまう自分がイヤです。

最後に

長くなりましたが、これは学校側だけの問題ではなく、都道府県や国、受験制度、大検との兼ね合い、など、さまざまな要素が合わさった結果、起きてしまった事件です。「全教科をまんべんなく」とか、「受験科目だけ」とか、そういった問題ではなく、高校や大学の意義を考えつつ、もう1段上からの議論が必要になってくるように思います。