知的好奇心
知的好奇心 波多野 誼余夫 稲垣 佳世子 中央公論新社 1973-03 |
「人間は元来怠け者である。だから、仕事をさせるためには
『ムチとニンジン』を用いる必要がある。」
この考え方は正しいか否か。実際に行われた実験として、
「被験者の感覚を遮断して、何もない部屋で過ごしてもらう」
というものがあります。もともとの気質が怠け者であるならば、何日でも
眠って過ごし続けることも可能なはず。けれども実際は……。
という内容から、人間は元来、知的好奇心を満たすような行動を行いたがる
生き物であり、「知識を広げるため」、「知識を深くするため」といった情報集めを
行う生物だ、と論じています。では、なぜ怠け者と考えるような風潮が生まれたのか。
一つの要素としては、「教師中心の教育」があります。教育は何のために行われるか、
といえば、当然、被教育者に教養をつけさせるため、でしょう。しかし、
教師が自己満足のために、あるいは、自分のペースで授業を行ってしまう事も
少なくないです。この場合、被教育者の知的好奇心を満たされることには
結びつきにくく、自ら進んで勉強しようという意欲をかき立てることは困難です。
そしてこれは、仕事などに関しても同等のことが言えるのではないでしょうか。
つまり、「与えられた作業を」「相手が求める」からやるのでは、自分から
率先しようとすることも難しいでしょう。
「知的好奇心」を満たせるような社会≒「相手の自己」を重んじる社会
であると思います。
ディスカッション
コメント一覧
すばらしい!その通りだと思います。それが好きなことだったらいくらでも知的好奇心は膨らみます。でも好きなことをずっと好きでいるというのは難しい、僕はそう思います。『好きである』ということが自分でわからなくなったとき、どうするのか。『嫌いになりそう』と思ったときは…?自然に任せるしかないのでしょうか?一度距離をとるべきなのでしょうか?なんだか恋愛にも通ずる気がしますが、Aterさんならどうしますか?
なかなか鋭いところ突いてきますね(笑)自分としては、「それを好きになったのはなぜか?」というところに戻ってみる事じゃないかな?
本当に好きになったものなら、違う側面から見つめ直してみることで、また新しい発見も出来るはず。最初に思っていたイメージが変わってしまったとしても、そこですぐに投げ出してしまうのはいかがなものか…と。よい面、悪い面はどんな物にもあるんだし、不安を感じたしても、短絡的に「嫌いになる」理由にしてしまうのはマズイ…と思ってます。さらに言えば、どうしても新しいよい面が見つけられないときも…「十分に味わうことができた」という感じで、プラス思考な精神を大切にできればBestかな?仮にその対象を諦めることになったとしても、前向きな気持ちで別れることができれば、次へのいい糧になるだろうし。
…実際に実行することは大変だと思いますが、こういう精神を持っているだけでも、考え方って変わってくると思います。
僕がWikiで書いたことと同じでびっくり。まったくその通りだと思います。最初はなんとも思わなかったことでも、その対象に接している時間が長いと自然と好きになっていて、一度好きだと思うと(人間の脳は融通が利かないところがあるので)いつまでもその感覚を保つことができる、そういう人もいるらしいです。うらやましい。僕はできれば論理的に好きだと確認するよりも、ものすごく衝動的でもいいからその対象を追究したいと思えるものに出会えたら良かったなと思ってましたので。(持ってるけどそれで飯はなかなか食えないのだ)